2021年06月21日

【し~なチャン便り 第24話】6月17日 1964東京五輪 日本人初メダルは?

テレビは1960年代に入って急激に各家庭に普及しました。2つの大きな出来事が背景にあったようです。一つは、1959(昭和34)年の皇太子・美智子さまのご成婚、もう一つが1964年10月10日に開催された東京五輪です。

皇太子殿下のご成婚には間に合いませんでしたが、家族全員が待ち望んでいた『日本初の五輪をテレビで』という願いはかなうことになりました。当時のテレビは9万円ほど、現在の価値に換算すると50万円以上という高価な商品。亡き父はかなり覚悟を決めて購入の決断をした、と思います。

さて、1964東京五輪の話です。
今回お会いしたのは、この五輪で「日本人初のメダル」を獲得した重量挙げの一ノ関史郎さん=77歳。八郎潟町出身、秋田市=。一ノ関さんの銅メダルで、日本勢は一気にエンジンがかかりました。当時の子供たちにも、その熱気は伝わり、小学校で「重量挙げごっこ」が流行ったという記憶も。

現役を退いた一ノ関さん、実はもう一つの顔があります。それは書道家。雅号は「清山(せいざん)」。秋田市泉で書道教室を開き、たくさんの子供たちを教えています。重量挙げアスリートと書道家。その人生、とても興味がわきます。

一ノ関さんは五輪第2日の11日、「金メダル候補」として日本中の期待を背に、重量挙げバンタム級に出場。大学3年生、20歳。現在の競技はスナッチ、ジャークの合計で競われますが、当時はバーベルを肩まで引き上げ、腕の力だけで頭上へ差し上げる「プレス」を加えた3種目合計で争われました。

(写真:一ノ関史郎さん提供)

最後のジャークで137・5キロを成功させた後、後のない3回目のトライアルで一挙に147・5キロに挑戦し、会場を沸かせました。成功すれば「逆転の金メダル」、しかし、これは挙げることはできませんでした。それでも自己最高記録のトータル347・5キロで銅メダル。金はトータル357・5キロをマークしたワホーニン(ソ連)が獲得しました。

初の五輪は「金」とは違う色でしたが、メダルを手にした一ノ関さん、表彰台で日の丸が上がったときの気持ちはどうだったんでしょうか。

ただ、当時の写真を拝見すると、表彰台の一ノ関さんの顔が沈んでいるようにも見えました。日本中が熱望していた五輪、その日本人第1号メダリストなのに…。なぜ?

「喜びはもちろんありました。でも、心の中から湧き出るようなものではなかった。精一杯の努力を続けてきました。でも、金は特別なものでした。次こそは金を、という思いが強くなった」(一ノ関さん)

1年後の7月7日、全日本選手権で360キロの世界新を樹立。それは東京五輪の金・ワホーニンの記録357.5キロを大幅に上回る記録でした。一ノ関さんは自信を取り戻します。

大学卒業後の昭和41年、秋田に戻り、それから2年半、当時の県八橋青年の家で一人だけの秘密練習を開始。次のメキシコ五輪を目指し、その記録は積み上がっていきます。世界中から注目を集める中で、一ノ関さんは金メダルを取るために独自の決断をします。それは「公の試合には一切出ない、ライバルたちに気付かれるから」という理由でした。

メキシコ五輪開催年の昭和43年5月。全日本社会人選手権で周囲はあっと驚きます。一ノ関さんは東京五輪の金メダリスト・三宅義信さんと同じフェザー級に出場し、トータルで387.5キロ。優勝の三宅さんとは僅差の2位。記録の伸びに、三宅さんは「今までどんな特訓をやっていたんだ」と驚いた、といいます。

しかし翌月、トレーニング中に腰を負傷。代表選考会では五輪代表に決定したものの、その後の練習が思うようにできなくなってしまいました。そして迎えたメキシコ五輪。

「結果はついてこなかった。5位です。けがのために、と当初は悔しい思いでした。でも、結局は自分に負けた、ということ。『相手を倒す』のではなく『自分との闘いに勝つ』ことの大切さにあらためて気づきました」

メキシコ五輪後、「やるだけのことはやった」と選手生活を引退。競技人生を離れた一ノ関さんが新たな「鍛錬の場」として選んだのが書道でした。

「重量挙げも書道も『心を鍛える』、そして『継続すること』の大切さということで共通している。毎日続けていくことで、確実にうまくなっていく。書を通じて、このことを子供たちに伝えたい、と思います」

一ノ関さんは、「挑戦」と書いた自書を見せてくれました。「心を鍛え、毎日コツコツと続けていく先に、新たな『挑戦』が見えてくるのではないでしょうか」

力強い言葉の数々、ありがとうございました。

 

シニア記者プロフィール

西村 修(にしむら おさむ)

元秋田魁新報記者。秋田ケーブルテレビ記者、ALL-Aアドバイザー

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