2022年01月19日

【し~なチャン便り 第49話】まちなかフカボリ~千秋公園編③「応召」された藩主像

千秋公園本丸に、秋田藩を収めた12代藩主、つまり「最後の藩主」である佐竹義堯(よしたか)(1825~84年)の銅像が立っています。高さ3.6m、台座を入れると8m余り。公園のシンボルの一つですね。

義堯は明治維新につながる激動の時代を生きた藩主です。秋田県が戦場となった戊辰戦争では、他の東北各藩が奥羽越列藩同盟を組んだものの、義堯の秋田藩は同盟を脱退し、官軍(新政府)側につくことを決断します。義堯は苦戦の末に「勝者」となり、明治の版籍奉還で秋田藩知事に就任しました。

義堯の死後、旧家臣が中心となって1915(大正4)年に建設されたのが「衣冠束帯(いかんたいそく。公家の正装のこと)姿の銅像」でした。しかし、太平洋戦争激化による金属類回収令(金属供出)により1944(昭和19)年、像はまるごと供出され、台座だけになってしまうんです。

当時の秋田魁新報は次のように伝えています(抜粋)。

「郷土の先輩、偉人の銅像が相次いで応召、現在までに寺院の鐘、銅像が兵器となって郷土を鹿島だって(※旅立って)いる。これに続いて勤皇秋田の表徴として敬われている、本丸の佐竹義堯公の由緒ある銅像もいよいよ近く応召し、武器となって前線に駆け付けることになった」(1944年3月10日)

応召とは「在郷軍人が召集に応じて軍隊にはいること」。戦争激化による物資不足、特に金属不足が深刻でした。記事では「藩主の銅像」が戦地に行くことを勇ましく伝えています。その当時の空気感みたいなものを強く感じます。

台座だけになった藩主像、公園を訪れる人は当時、どんな思いで見つめていたのでしょうか。「勇ましい」と感じたのかなぁ。

終戦後の1953(昭和28)年に佐竹家から贈られた高さ90㎝の像がしばらくの間、代わりに置かれていた、といいます。しかし、市民から「小さな銅像は寂しい。ぜひ復元を」との声が多く寄せられ、秋田市政100年記念にあたる1989(平成元)年、戦前のものと同じ大きさで復元されました。市民からも多くの寄付があった、そうです。

再建された「佐竹義堯公像」は平和の象徴です。もう、台座だけの像なんか見たくはないです…

ところで

公園本丸にあるのが、藩祖(佐竹義宣)ではなく、「最後の藩主・義堯」なのか?他県を見れば、藩主の居城跡に建てられる銅像は藩祖が一般的、とされます。

理由はいろいろあるようです。

文中で記しましたが、まずは「明治維新で功績があったから」。そして、郷土史家の中には「義宣公は肖像画などの資料が極端に少ない。素顔が分からなかったためではないか」という説も。

なるほど…

現存する義宣の肖像画は、義宣や義堯がまつられている八幡秋田神社(同市千秋公園)と佐竹家の菩提(ぼだい)寺である天徳寺(同市泉)に2枚あるだけ。いずれも具足と面貌(めんぼう。顔マスク)で隠れ、素顔が分かりづらいのは確かです。

しかし…

久保田城を築き、今の秋田市へとつながる街づくりの流れをつくった佐竹義宣。熱烈なファンの一人として声高らかに訴えたい。ぜひ本丸に「義宣像」も!!

あの面貌、「顔マスク」スタイルは、むしろ令和時代の「トレンド」ですから…

以前、番組で「佐竹義宣」愛を伝えさせていただきました。よかったらぜひ。

記者プロフィール

西村 修 (にしむら おさむ)

元秋田魁新報記者。秋田ケーブルテレビ記者、ALL-Aアドバイザー

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