2022年07月13日

【ももふく便り 第7話】秋田市八橋にあった八橋競馬場

秋田市八橋 草生津川沿い、通称「コスモスロード」は、秋にはコスモスが、春には桜が咲く、私も大好きな散歩コースです。

そんなコスモスロードからパブリ周辺ですが、戦後まもなくまで、競馬場だったのをご存知でしょうか。
今では住宅街やショッピングモールになっていますが、当時のコースが地形として残っています。

激動の明治が終わり、大正に入る頃、日本には数多くの地方競馬場ができました。
秋田県も例外ではなく、現在の秋田市や大館市に競馬場がありました。
今回は、秋田市八橋競馬場の歴史について書きたいと思います。

八橋競馬場の発足は、秋田県産牛馬組合会が、種畜運動用地を買収したことから始まります。しかし計画の途中で、草生津の地価が高騰し、全ての用地を買収することは困難かと思われました。その事情を知った秋田市の小林金之助氏が土地を買い集め、組合に安く売却したり、寺内村長が村有地を寄付するなどの様々な援助で、全ての予定地を確保しました。
大正2年 工事着工、翌年に完成し、八橋競馬場が誕生しました。
第1回競馬会には、出場申し込みが60頭を超え、県内畜産家の馬たちが競馬場付近で猛練習を始めました。北海道からも当時県内で見ることのできなかった洋馬のサラブレッドが、騎手と共にやってきました。開催日当日になると、八橋は人波で埋まり、会場は身動きが取れないほどとなり、大いに盛り上がりました。
面影橋からは、餅、菓子、果物などの屋台が並びお祭りのような賑わいを見せました。
レースの合間には、曲馬、楽隊、綱渡り、自転車曲乗りなどのサーカスが行われました。
八橋競馬場は、県と馬政局の公認で毎年補助金がおりました。
奨励の為、更に多くの寄付金が交付されると、各馬主や騎手の意気込みは凄まじいものとなり、秋田の競馬熱は更に盛り上がりました。

大正15年5月には、春季競馬が行われ観客は3万人にもおよび、馬券売り場は長蛇の列となりました。
戦前昭和になると、当初から賞金も10倍近く増加しました。当時一等賞金300円以上は、今の価値で100万円近いのではないでしょうか。

昭和16年 太平洋戦争に突入してからは、軍馬の需要が急増し、政府は、娯楽目的の競馬を全面禁止しました。昭和20年 終戦すると、暗く苦しい生活を強いられている国民の、士気をあげ復興意欲をもたせる目的で、政府は、映画館や劇場、競馬などの娯楽に対する制限を緩和しました。
昭和23年 競馬法が施行され、この勢いをさらに加速しました。
競馬法は、国や地方自治体の財政難を補うことが目的でしたが、国民に希望をもたせるものとなりました。
昭和23年 秋田県は、秋田競馬倶楽部より八橋競馬場を買収し、「秋田競馬場」と改めました。
しかし、戦時で長く使われていなかった八橋競馬場の馬小屋は、無残なものとなっており荒廃していました。県は大急ぎで改修し、同年第一回県営秋田競馬を開催しました。寒さも厳しい初冬でしたが、待ち侘びた多くの競馬ファンたちが馬券を求めました。レースも強烈な攻め合いで見応えのあるものでした。
しかし、当初の予想とは異なり、改修に費用をかけすぎたことや不況などがあいまり、赤字経営が続きました。県議会でも、県営競馬場に関する不満意見が途絶えることはありませんでした。
昭和29年 秋田県が多いに期待した県営競馬は、予想に反して大きな赤字をかかえ、廃止が決定されました。地域発展や県民の娯楽のため、どうにか継続させようと民間移管まで運営を務めようとしましたが及ばず、八橋競馬場は廃止となり取り壊され、秋田市の競馬の歴史は幕をとじました。

八橋競馬場が発足された大正初期は、娯楽が民衆のものとなった時代だと感じます。
当時の賑わいや歓声を感じながら、八橋を探索してみると面白いかもしれません。

 

参考文献
「秋田県競馬史」佐藤清一郎著 北方風土社 1990年9月発行
「秋田県畜産史」秋田県畜産組合編 1936年10月発行
「全国地方競馬場写真帖」帝国馬匹協会編 1938年(以降)発行

記者プロフィール

豊島春香(とよしまはるか)

秋田県秋田市出身。会社員をしながら、県内発行シニア向けフリーペーパー「ももふく」の編集長をしています。 ももふくHP:フリーペーパーももふく

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