2022年10月03日

【ももふく便り 第8話】秋田の除雪の歴史

日が暮れるのが一段と早くなり、朝晩の冷え込みに秋の訪れを感じます。
この秋の訪れに、秋を通り越し冬に思いを馳せていました。

私の実家は狭い道に面しています。毎年除雪が追いつかず、車が通った跡がわだちになり気を張って運転しています。今年の1月には、急な大雪に除雪が追いつかず、市の除雪コールセンターに要望や苦情が相次いだとしてニュースにもなりました。

この豪雪地帯である秋田県で、昔はどのように雪と向き合っていたのでしょうか。今回のコラムは、「秋田県の除雪の歴史」について書こうと思います。

雪が降っても、交通を確保し、生活を守る取り組みは昔から行われていました。除雪の体制が整備されていない明治・大正時代には、馬そりや人力で道路に積もった雪を圧雪していました。各家では、踏俵(ふみだわら・ふみだら)という道具を使い、雪を踏み固めて道をつくっていたそうです。雪をよせるのではなく、固めていたんですね。踏み固められて雪道が高くなり、家々への出入りには雪に刻んだ階段を降りなければならなかったそうです。そもそも冬の間は、外に出たり遠くに行かなくてもいいように生活していたのかもしれませんね。その一つとして秋田では、冬の保存食である「がっこ」文化が根付いています。

秋田県において除雪を機械力で実施したのは、昭和22年の冬に米軍が、秋田市内の目抜き通りを機械除雪したことが始まりです。それまでは、全て人力で行われていた秋田の除雪が新しい方向に移るきっかけとなりました。昭和20年代後半までは舗装率は1%にも満たず除雪機械は秋田県全体で10台未満しかありませんでした。
昭和36年2月には記録的豪雪がありましたが、予算がなく除雪機械も充分ではなかった秋田市ではバス・市電・乗用車が立往生し大混乱となりました。秋田土木事務所(県管理)では、グレーダー3台・ブルドーザー1台・除雪トラック1台を出動させましたが、国道と県道のみの稼働だったため、市道となると続く道であっても向きを変え除雪をしてもらえなかったそうです。この年の秋田市の除雪費は、なんとゼロ。かかった費用を追加予算として都度計上していました。同年、県が国会に対して除雪に関する要望書を提出したり、町内会費で除雪をするなど徐々に除雪体制が整いはじめました。
昭和40年代に入ると、地方自治体が力をつけると共に、除雪事業も急ピッチで進展していきました。
昭和49年には観測史上希な豪雪により、除雪機械の充実、除雪距離の延長などの整備が進みました。

車や電車などの交通機関が発達し、冬の間も人や物の移動が行われるようになると、除雪も進化していきました。
昭和50年頃の冬の魁新報の見出しでは、「町ぐるみで除雪を」「校舎も通学もSOS」「費用自前でかってでる」「歩道の除雪にも力」などが並び、苦労しながらも個人・町ぐるみで雪と戦っていたことが伺えます。

まもなくやってくる冬・・・。気を引き締めて上手く付き合っていきたいものです。

引用:
「お米の話 北の野の百姓歳時記」(鈴木 元彦/著、無明舎出版、1998)
「秋田県における除雪工法と今後の問題点」(青木 文夫/著/建設の機械化,第153号,昭和37年複写)
秋田魁新報朝刊
1961年2月1日朝刊7面
1961年2月1日朝刊3面
1961年11月23日夕刊3面
1974年2月4日朝刊11面
1977年2月28日朝刊6面
1979年11月28日朝刊12面

記者プロフィール

豊島春香(とよしまはるか)

秋田県秋田市出身。会社員をしながら、県内発行シニア向けフリーペーパー「ももふく」の編集長をしています。 ももふくHP:フリーペーパーももふく

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